【瓶焼窯】
瓶焼窯は牝小路家と葛城家が共同で使用した窯です。
両家は1644年から屋敷の近所を開拓し始め、それぞれ2000坪程度の田畑を所有していました。
肥後移住から10年ほどで「御赦免開き」を許されました。
「御赦免開き」とは300坪当たり1升2合(のちに1升8合)の米を負担するだけの恵まれた所有地で、最高位の村役人や農村に居住する武士などにしか許されない特権的なものでした。
1700年代前半は御用(藩からの注文)を両家が1年交代で行い、民間への販売は認められていませんでした。
また、当時は一子相伝で本家の当主のみが焼き物職を行っており、生産量は限られていました。
発掘調査によれば現在の窯跡は1769年に築かれた新窯で、その下にさらに古い窯跡が存在することがわかりました。
古窯を壊してその上に一回り大きな窯を築いています。
瓶焼窯の改築の経緯は『小代焼物始よりの書付控』に記されています。
それによれば、牝小路家(七代)・葛城家(四代)が
「窯屋が破損し、火廻りが悪く焼物の出来が良くないので御用焼物にも差支えている。
そこで新窯築造のための丸太、坑木、竹、萱などの用材や、のべ七百人の人夫代銀七百目の拝領を願い出る。」
という内容でした。
しかし、改築の人件費は自前で賄うことになりました。
【瀬上窯】
瀬上窯は他国産の陶磁器流入に対抗し、小代焼の増産を目的に江戸後期の1836年に築窯されました。
瀬上林右衛門が窯元となり、多くの職人を雇い入れて多種多様な陶器を生産しました。
当主のみが一子相伝で焼き物を生産する瓶焼窯とは異なり、瀬上家当主は窯の経営者であって焼き物細工は行わず、雇い入れた職人に作陶させていました。
また、瀬上窯の時代から本格的な卸売りを開始します。
五徳焼という名称は「毒を消すなどの五つの効能がある」として、この時代から使用されたと考えられます。
民間からの注文も募っており、販路拡大を目的とした現在のキャッチコピーのようなものです。
瀬上窯跡の近くには水簸場(粘土を精製する場所)や車壺(ロクロ場)の跡も見つかっており、小代焼の歴史において最も盛んだった当時の様子を今に伝えています。
古小代の里公園
【野田窯】
瀬上窯に勤めていた野田広吉により、1860年~1861年に野田窯が開窯しました。
その後、日中戦争の影響で1937年に閉窯したとされています。
現在は子孫である野田義昭氏により、1988年に松風焼野田窯(現:小代松風焼野田窯)として再興されました。
【古畑窯】
古畑窯と小代焼の関わりについて2つの文章を引用します。
「しかしその詳細は依然不明であり、やがて調査が進展して明らかになるであろう。寛永九年(一六三二)一二月細川忠利の肥後入国後、細川家に従って豊前上野から小代に移住したという陶工との連続性は確認できない。」
熊本県立美術館『第二十五回熊本の美術展 小代焼』、2005、130頁
「古畑窯で焼成された陶器は、後に同じ小岱(代)山麓で生産された小代焼と同様に朝鮮系の技術を基礎とするものであるが、17世紀の小代焼は窯跡が未確認で生産の実態がわかっておらず、古畑窯とは製品の特徴にも違いがある。今のところ加藤氏時代の古畑窯と細川氏入国以降の小代焼との関係は不明と言わざるをえない。」
佐賀県立九州陶磁文化館『熊本地震復興祈念 特別企画展 熊本のやきもの』、2017、132頁
確認されている中で熊本県最古の登り窯“古畑窯”が荒尾市にあります。
この窯は細川氏入国以前、加藤氏時代の窯跡と推測されています。
窯の構造や製品から見て初期の肥前陶器(唐津焼)との関係が深く、釉薬は灰釉が主体で 日常容器を主に作っていたようです。
出土した製品には周知の小代焼と異なる点が多く、小代焼発祥との関係は確認できません。
しかし、熊本県で最古の登り窯跡であり、県内の施釉陶器の創成期を知る上で重要な窯跡です。
現在は加藤氏との関わりや誰が製品を作ったかなども確定はしておらず、新たな物証や文献の発見が望まれます。
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※現時点で、1600年代の小代焼については実態が分かっていない事柄も多くあります。