瀬上林右衛門
江戸後期には、それまで一子相伝の小規模生産であった小代焼に大きな変化が訪れます。
南関手永御山支配役・瀬上林右衛門の参入です。
当時は他国の陶磁器に押され、肥後国産品の充実が不十分でした。
そのため小代焼の増産が計画されたのです。
1836年に瀬上林右衛門が窯元(とはいっても制作は行わず、最高経営者のような立ち位置)となり、瓶焼窯から300mほどの場所に瀬上窯を築窯します。
瀬上窯は全長約25・3m 幅約3・1mの大規模なものです。
また、この時期から本格的な卸売りを開始し、一般にも小代焼が出回るようになります。
1849年の『焼物店々への引渡申候目録控』によれば5軒の販売店に相当の数量を卸しており、町方への需要拡大は成功したと思われます。
南関手永御山支配役・瀬上林右衛門の参入です。
当時は他国の陶磁器に押され、肥後国産品の充実が不十分でした。
そのため小代焼の増産が計画されたのです。
1836年に瀬上林右衛門が窯元(とはいっても制作は行わず、最高経営者のような立ち位置)となり、瓶焼窯から300mほどの場所に瀬上窯を築窯します。
瀬上窯は全長約25・3m 幅約3・1mの大規模なものです。
また、この時期から本格的な卸売りを開始し、一般にも小代焼が出回るようになります。
1849年の『焼物店々への引渡申候目録控』によれば5軒の販売店に相当の数量を卸しており、町方への需要拡大は成功したと思われます。