小代焼中平窯 ~熊本の窯元~

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小代焼の源流

会寧窯 ~朝鮮北部の民窯~

【会寧窯と九州諸窯】
※会寧:かいねい/フェリョンと読みます。

失透釉(藁灰釉・斑釉)は、朝鮮陶技の本流から外れた朝鮮北部 会寧窯の流れを汲んでいると言われています。

小代焼に関しては江戸期~現代に至るまで藁灰釉を一貫して使い続け、主要な技法としていることが特徴です。

失透釉を使用することは唐津焼(斑唐津・朝鮮唐津など)、上野焼、高取焼、小代焼などの九州諸窯に共通した特徴です。
中でも日本では岸岳系古唐津にて初めて失透釉が使用されたと思われます。

会寧窯の特徴としては以下の通りです。


【会寧窯の特徴】
・現在の北朝鮮と中国の国境付近に窯が点在している。

・朝鮮陶技の本流からは離れ、中国の均窯とつながりがあると考えられる。

・製品の底は厚く手取りが重い。器を直火に掛ける習慣があり、底が黒くなった品物がある。

・見込みの多くに斜めに釉溜りが生じており、無段式登り窯の窯底斜面に窯積めしていたためと思われる。

・藁灰による失透釉(藁灰釉・斑釉)が多用される。しかし原料が確定しているわけではなく、藁灰の使用には疑問も残る。

・失透釉以外に 灰釉や鉄釉(飴釉)も見られる。

上野焼 ~小代焼・高田焼の源流~

上野焼(あがのやき)とは福岡県田川郡で焼かれている陶器です。

江戸時代前期に細川忠興が豊前国小倉藩主になった際、朝鮮人陶工である尊楷(そんかい)を招いたことにより始まります。

尊楷は陶工集団の指導者的な立場にいたと考えられていますが、その実態には不明な点も多くあります。

1632年の細川忠興・忠利の肥後入国に伴い、上野焼陶工である牝小路源七と葛城八左衛門は熊本県北部の小代山(現:小岱山)で小代焼を、尊楷とその息子(長男・次男)は八代郡高田に移り高田焼を始めました。

細川家肥後入国後の上野焼には尊楷の三男と娘婿が残ります。

その後は小笠原氏が藩主となり、新たな茶道師範の加入、陶工の代替わり等が重なって 薄作りで釉薬の種類が多いものへと作風が変化していきます。
特に江戸後期には、技巧に重きを置いた装飾の多い作風になったようです。

高田焼 ~上野焼の系譜を継ぐ肥後陶~

加藤清正の子:忠広が1632年に改易され、代わりに細川忠興・忠利が肥後藩を治めるようになります。

細川家はそれ以前の約30年間小倉藩を治めており、その間に窯業を興し上野焼の基礎が完成します。
そして細川家の肥後入国を機に、上野焼陶工も肥後へ移り小代焼・高田焼として発展していきます。

尊楷とその長男・次男が携わった高田焼は、細川家の御用窯として保護を受けます。
高田焼の作風は初期上野焼と類似しており、尊楷の死後 平山窯の時代にはそれまで試作的であった象嵌技法が完成したとされています。