牝小路家と葛城家の始まり
小代焼物師として最も長く続いたのが牝小路家と葛城家の2軒でした。このページでは両家について詳しく解説します。
【牝小路家と葛城家の出身地について】
『田川郡家人畜改帳』によると
1622年の小倉藩では上野村には焼物師8名、弁城村には焼物師5名が居住していました。
このうちの何れかが10年後の細川家肥後入国に伴い、小代山周辺に移住したと推測されます。
上野村、弁城村には釜の口窯/皿山本窯/岩谷高麗窯の窯跡が存在しています。
『明治十五年字小名調』によると
小字で「釜の口」近くに「小路屋敷」「後小路」がみえ、「岩谷口」の近くに「カツラキ」「桂木」という地名が残っていたことも、この推測を裏付けるでしょう。
高鶴元氏の著書に『上野皿山付近字図』という地図が掲載されていますが、その中でも「葛城」「後小路」「小路」という地名を確認できます。
私自身、2019年に細川家時代の上野焼窯跡を視察したのですが、窯跡からほんの数100mの地点が「かつらぎ」という地名だと知って感動した記憶があります。
【牝小路家の始まり】
始まりは源七と子・市左衛門/孫・又兵衛の3名が豊前国上野貧(牝)小路から南関手永宮尾村に移住して開窯したといいます。
『小代焼物始よりの書付控』にある1753年に玉名郡奉行所に提出された先祖書によると、両家は細川家の肥後入国後に豊前から宮尾村に移住、御用の焼物を差し上げてきました。
3代・又兵衛は1630年の生まれで 2歳のときに肥後に来たと記されていますが、もし1632年に肥後に来たとすれば数え歳では3歳であり、覚え違いであろうと思われます。
最終的には11代・喜一郎まで製陶の記録があり、1881年(明治14年)頃に廃業しました。
【葛城家の始まり】
源七の縁者である八左衛門を初代とします。
1872年(明治5年)の10代・葛城仙太の先祖書に、初代・八左衛門は豊前上野葛城山の焼物師で宮尾村に移住したと記してあります。
初代・八左衛門の肥後移住時の年齢は30歳よりも前と考えられ、源七親子三代と共に移住し一家を構えました。
11代・光次郎が1918年(大正7年)頃まで製陶していた記録があります。
※正確な廃業時期は未確定。
【牝小路家と葛城家の出身地について】
『田川郡家人畜改帳』によると
1622年の小倉藩では上野村には焼物師8名、弁城村には焼物師5名が居住していました。
このうちの何れかが10年後の細川家肥後入国に伴い、小代山周辺に移住したと推測されます。
上野村、弁城村には釜の口窯/皿山本窯/岩谷高麗窯の窯跡が存在しています。
『明治十五年字小名調』によると
小字で「釜の口」近くに「小路屋敷」「後小路」がみえ、「岩谷口」の近くに「カツラキ」「桂木」という地名が残っていたことも、この推測を裏付けるでしょう。
高鶴元氏の著書に『上野皿山付近字図』という地図が掲載されていますが、その中でも「葛城」「後小路」「小路」という地名を確認できます。
私自身、2019年に細川家時代の上野焼窯跡を視察したのですが、窯跡からほんの数100mの地点が「かつらぎ」という地名だと知って感動した記憶があります。
【牝小路家の始まり】
始まりは源七と子・市左衛門/孫・又兵衛の3名が豊前国上野貧(牝)小路から南関手永宮尾村に移住して開窯したといいます。
『小代焼物始よりの書付控』にある1753年に玉名郡奉行所に提出された先祖書によると、両家は細川家の肥後入国後に豊前から宮尾村に移住、御用の焼物を差し上げてきました。
3代・又兵衛は1630年の生まれで 2歳のときに肥後に来たと記されていますが、もし1632年に肥後に来たとすれば数え歳では3歳であり、覚え違いであろうと思われます。
最終的には11代・喜一郎まで製陶の記録があり、1881年(明治14年)頃に廃業しました。
【葛城家の始まり】
源七の縁者である八左衛門を初代とします。
1872年(明治5年)の10代・葛城仙太の先祖書に、初代・八左衛門は豊前上野葛城山の焼物師で宮尾村に移住したと記してあります。
初代・八左衛門の肥後移住時の年齢は30歳よりも前と考えられ、源七親子三代と共に移住し一家を構えました。
11代・光次郎が1918年(大正7年)頃まで製陶していた記録があります。
※正確な廃業時期は未確定。
